人間デビュー予行練習

わたしは、23歳になった。もはや誰もわたしがそのうちに死んでしまうだなんて思っていないだろう。わたしの体調は高校3年の夏よりも、うんとましだ。

前回の日記に書いた、三滝くんの代替は、学ちゃんである。完全なる代替ではなく、三滝くんが就職して東京に行ってからの数回と、前回の病院での三滝くんが学ちゃん。わたし本当は気付いていたし、知っていたよ。ただ、自分は気が違ってしまっていると思っていれば、そう振舞っていれば、とても落ち着いたから。また、周囲の人だって、心配してわたしを甘やかしてくれたから。結局はわたしはいつだって自分が楽なように生きている。気が違ったふりをして妄想の世界に生きることで、しあわせを演じた。しあわせというものは気味が悪いほど簡単にわたしの生活に馴染んだ。吐き気がした。これまでわたしはしあわせを渇望したことがなかった。それはしあわせだと自称している知人を見ても何ら羨望は湧かなかったし、それらが自身に必要であるとは感じなかった上に、わたしは彼女たちの言うしあわせという感情をあまりよく理解できなかったからだった。優しくてかっこいい恋人がいてしあわせ、おいしいものを食べてしあわせ、高価なものを身につけてしあわせ。彼女たちのいうしあわせは、何とも単純で薄っぺらいもののように感じた。気が違ったふりでもしないと、わたしにはそれらの“しあわせ”を受け入れることができなかったのかもしれない。しかしまあ、やっぱりわたしにはしあわせは理解できかった。きっとしあわせだと言ってしまうと、自分に逃げ場がなくなるからだろう。これまでずっと身を置いてきた“ふこうのぬるま湯”のほうが、よっぽど居心地が良かった。このままふこうのぬるま湯に居続けることは、とても簡単だ。自分をふこうのこどもだと嘆いているだけで万事うまくいくのだから。気が違ったふりをしながら演じたしあわせだって、きっと本当のしあわせよりも、ずっと簡単で楽なものだったのだろう。しあわせになりたいとは、今でも思わない。ふこうのぬるま湯でいるほうが楽だから。それでも、このまま楽なままでは、きっと人間ではいられないから。人間として生きていくには、逃げ場のない毎日を、自ら迎えに行く覚悟が必要なのかもしれない。そのタイミングは、きっとそう遠くない将来なのだろう。