わたしの見たい夢はここにはないの。

そもそもわたしの見たい夢とは一体何だ。それが何かさえも分かっていない癖に、ここにはないと決めつけていいのか。ああ、分からない。分からないと言っていれば逃避できるから、わたしは最近分からないという言葉をよく使う。
どうして人は悲しみに意味や理由を追求して素直に受け入れない癖に、楽しさのことは素直に受け入れるのだろう。何も考えず、喜びや楽しさを迎え入れる。悲しみは噛みしめて何度も何度も咀嚼する癖に、楽しさに対しては無防備だ。だから楽しさの賞味期限は早い。しばらくすると、何が楽しかったのか、その時自分はどんなことを考えていたのか、が、思い出せなくなる。わたしは博子の死を咀嚼しすぎて、もう味がしなくなってしまった。8年間咀嚼し続けた悲しみは、もはやべろべろで、原形が思い出せないほど。わたしが今もなお咀嚼し続けているこの悲しみは、一体なあに?分からない。ああ、分からない。わたしは一体何が悲しいの?何が悲しかったの?博子の死を何よりも悲しいものとして、今まで生きてきました。それ以上に悲しみを作るのが怖かったから、わたしがここ8年間感じてきた悲しみは、ぜんぶぜんぶ、博子の死でした。でも、ああ、博子、ごめんなさい。わたしがいつまでも悲しみに暮れているのは、きっとあなたの死じゃなかったのだわ。ぜんぶぜんぶ一緒くたにして、悲しみは全部博子のせい。わたしには博子の死以外に悲しみはいらなかったから。これ以上悲しみを咀嚼するのが耐えられなかったから。だからもう味のしなくなった悲しみに、いつまでも縋っていました。そうしていれば楽だったから。博子の死は、わたしのかっこうの逃げ場でした。これからも、わたしは分からないという言葉を利用して、色んなことから逃げるだろう。逃げて逃げて逃げて、その先にあるのは一体何なのだろう。喋れないなんて嘘。本当は言いたいことも、思っていることも、山ほどある。逃げていても、何もならないかもしれない。でも、逃げずに立ち向かうことに、何かメリットはあるの?ああ、分からない。