『哀しみで自分をすり減らしちゃいけない。死んだ人は死んだ人。人生は生きている者のためにあるのだから。』
そんな、じゃあ、わたしはどーしたらいいってんだ。わたしの仕事は博子の死を悼むことなのに。ざんこく。だけど今までも何度か書いてきたように、博子を悼むには時が経ちすぎているし、博子の映像の鮮度だって落ちてる。もう既に博子のことで泣いている、という言い訳は通用しないんだ。それでも「博子」という単語を発すればみんなわたしを哀れんだ眼で見て、仕方ないよ、って。そーゆう風にするから、まだまだ通用するんじゃん?って、いい気になって、ぜんぶぜんぶ博子のせい。わたしが今頭いたいのも博子が死んだからだし、涙が止まんないのも博子が死んだからだし、人を愛せないとか嘆いてるのも、あたまがわるいのだって、ぜんぶぜんぶぜんぶ博子のせい。博子が死んだことで何かが違えて、って、そんな訳ないのに。そんなの自分が1番分かってるよ。確かに博子が死んだことで受けた影響はあるかもしれないよ、でも、そんなのただ一瞬じゃん。人が生きて、死んで、そんなの一瞬なのに。その一瞬に縛られるなんて馬鹿みたいだし、でもわたしは正真正銘の馬鹿だし。訳分かんないな、本当。誰かタスケテクレ。とかこーやってまた他人に甘えようとするじゃん?『自分自身以上に愛するものがあるとき、人は本当に傷つくのだ。』って、グッド・ウィル・ハンティングで言ってるけど、わたしはやっぱり自分が1番大事で自分が1番愛しい利己主義、エゴイズム、の、かたまり、なんだろーし。本当には傷ついてなんかないんだろうね。ただ傷ついたふりをするのが得意なのだ。虚言症だし、自分自身にも嘘をついてるんだよ、それも絶対ばれない嘘。ただのご都合主義だしさあ。そうそう、全く関係ない話なんだけれど、わたし本を読んでも1週間後には話の内容とか全部忘れてしまうんですね、なんか、どーでもいいやーとか思ってるから。今まで読んできた本の数は数えたらまあそこそこの数字になるんだろうけれど、全然自分が何読んでたかとか覚えてないし、本読んでも何も吸収してないんだろうなー。だから成長しないし、でも成長したくないし、大人になんかなりたくないし、あーこんなこと思ってるからいろいろ駄目なんだろうなあ。って。分かってるならさっさと受け入れろよ、って話ではあるけれど、こればっかりは譲れないなあ、なんて。なんてなんて、別に譲れないものなんて何一つないんだけれど。とりあえず今は頭痛薬と小菅が欲しいなあ。欲しいってゆうか、コロシタイ衝動、ね。つまりは死にたくてたまんないので自分の感情の一部である小菅をコロセば、自然とわたしのどろどろ汚いところとか、なくなるんじゃないかーとか、思う。よく小菅がわたしの首を絞めたり、暴力を働いたりするのも、小菅の中のどろどろした部分をわたしと重ねていて、その部分を亡くそうとしたり浄化しようとしているからだと思うんだけど、違うのかなあー。違うんだろうなあー。

結論:別に博子の死を悼む(ふりをする)ことでわたしは何も自分をすり減らしちゃいないので、これからも博子を悼む(ふりをする)ことで自分を形成していこう。成長なんて放棄しても何ら問題ないんだ。少しばかり成長を放棄することを恐れている自分自身のほうが大問題だ。こんなの自分じゃない。