昨年の10月の末に知人の親族のお葬式に行ってから、感情の咀嚼の仕方が分からない、といったことで悩んだ。  一昨日、その知人と2か月半ぶりに会ったのだけれど、彼はすこぶる元気だった。あまりにも明るく、よく酒を飲み、べらべらと話していた。わたしはまた、よく分からなくなって混乱した。2か月半前葬儀場で会った彼は悲しみに暮れて、この世の終わりといった顔をしていたのに。今目の前で笑っているこの男は、誰。2か月半前の彼とは、まるで違う人みたい。失礼だと思いつつ、あまりにも困惑したので「どうしてそんなに明るいの?亡くなった人のことは、もういいの?」と聞いた。すると彼は「そりゃあ今でも悲しいし、ふと思い出して泣くことだってあるよ。でも亡くなった直後ほどではないな。いつまでも悲しんだって、何にもならないだろ」と、苦笑いしながら答えた。やっぱり、そういうものなのか。わたしだって博子博子と言うけれど、毎日ずっとずっと博子のことを考えているわけでもないし、なあ。悲しんでいるわたしの横で笑っている人がいるのも、悲しんでいる人の横でわたしが笑っているのも、きっと自然のことだし、何も悪いことではないのだろうな。わたしがいつまでも博子のことを悲しむ必要も、義務もないのだろう。何も深いこと考えないで、いいのだろうな。そしてそうやって、いつか一切亡くなった人のことを悲しむこともなくて、思い出すこともなくなるときが、きっとくるのだろう。変なの。それじゃあ、死んだとしても、思い出す人がいる限り、やっぱり死なないんだね。博子は、まだ死んでないんだね。わたしが思い出してる限り、博子は、死んでないよ。ああ、やっぱり博子を思い出すことはやめられないじゃない。