まばたきや呼吸のように、普段無意識でしているものを意識してしまうとうまくできなくなってしまうそれ。わたしは感情を意識して、よくわからなくなってしまった。でも、その意識は気付かぬ間にまた無意識へと戻っていくものだから、結局何も深く考え込まなくたって、よかったのかもしれない。無意識を意識化するようになってからは、癇癪をおこして泣き喚くことが極端に減った。でもそれはきっと、根本的な解決ではなくて。何が何だか、もううまく分からなくなってしまったけれど。わたしは、無意識に返っていく。


この前2歳年下の弟と久しぶりに会った。(わたしには血のつながらないきょうだいが割りとたくさんいるのだけれど、この弟とは兄弟の中でも一番仲がいい。)弟は、今大学3年生らしい。お母さんが再婚して、新しいお父さんを受け入れられないと泣いていた彼も、立派に成人していてわたしはなんだか嬉しかった。


12月、今年で、9年。博子の死を悼むことで生かされているわたしは、今年も性懲りもなく頭が痛いよ。今まで毎年こんなうじうじ言っている自分は嫌だだのおかしいだの、本当はもう悲しくないのに、博子のことなんて思い出せないのに、と言っていたけれど、まだしばらくは味のしないこの悲しみを、咀嚼することにする。そこから先のことは、また考えるよ。本当にわたしはわたしを甘やかすことが得意だな。というか、悲しむ(ふりをする)ことをやめたところで、次にすることが見つからないし、咀嚼をやめたら死んでしまいそう。わたしは、きっと生きたいのだ。生きたいから悲しみを咀嚼するんだ。博子以外の死を悼めないことに罪悪感や違和感を感じ意識化してしまったことで、かえって博子への執着を強めたよ。訳分かんないか、そうか。