わたしが自分をバイセクシャルであると思う理由として、人生を共にするパートナーは必ずしも異性である必要がないと思っている、ということが大前提としてあげられる。なぜならそのことを友人に話すと「侑衣ってバイなんじゃね?」と言われたからだ。そこで、自分は他人とは違い、一線を画した人間であることがうれしいと思うイタイイタイわたしは「あ、そう?ふーん、わたしってバイなんだ〜。へえ〜…うふふ」くらいに思ってバイセクシャルを公言していた。お恥ずかしい人間である。笑ってくれていいよ。いやしかし笑われたら少し傷つく。卑小な人間のくせにプライドだけは一人前なんです。

とにかく何が言いたいかと言うと、人生を共にするのは本当に異性じゃなきゃいけないのか?という話なのです。別に誰も異性じゃなきゃだめ!って言ってないけど、大多数の人は異性と結婚するし、そんで生涯を共にするわけじゃないか。どうしてそれが異性なのだろうか。人を愛するということに変わりはないのだから、別に同性でもいいんじゃないだろうか。わたしは三滝を愛していますし、小菅のことも愛していました。そして博子のことだって、愛していました。それはどれも愛という感情で、ぜんぶ同じである気がする。しかしわたしにとっては同じことだけれど、みんなは違うのかもしれない。いや、違うのだろう。もうわからん。人を大切におもう、その人の幸せを願う、そういう気持ちを愛と呼ぶのであるとすれば、わたしにとっては全部愛であって、性の区別はない。

そこで何が区別になるのかと考えると、やっぱり性的関係を結ぶという点にあるのかなあ、と思う。(わたしは同性と性的関係を結ぶことはできないかなあ。キスならできるけれども。)しかしわたしにとっては性的関係を結ぶことに愛などこれっぽっちも必要ではないので、わたしの愛という感情に性的関係は影響を与えない。同性同士では子孫が残せないから、ということも考えられるが、わたしの場合異性とであっても子孫は残せないのでそれに関しても特に影響はない。

言ってしまえば、わたしが同性と性的関係は結べないわと感じているように、異性を愛し求めるというのは本能や自然の摂理によるものであって、わたしの言う愛とこの場合の愛は少し違うのだろう、それは分かっている。だって人間以外の動物で同性愛者なんて聞いたことないし、もともとインプットされてるんだろ?

でも、人間は考える動物であって、様々な感情を持って生きているのだから、本能や自然の摂理を覆したって何もおかしくないじゃないか。だから同性愛者やバイセクシャルがいたってなんら不思議ではない。あーもう自分が何言いたいのかわかんなくなってきたぞー。こうやって分かんない分かんないって考えに蓋をしてその思考を放棄するのはわたしの悪い癖である。

今日の結論として。バイなのでは?と言われたときに、それに関して一線を画していると感じた点からも、わたしだって異性を愛するのを“ふつう”と考えている、本能に従った平凡な人間であるということ。



追記

結論2

わたしは自分が人と違うのではないか、という概念が拭い切れないが故に、自分が人とは違うという理由をこじつけている愚か者なのではないか。