私的恋愛哲学

人は恋をしている時のドキドキ感覚を求めて恋をする、と仮定する。
ホラー映画を見ている時のドキドキ感覚と恋をしたときのドキドキ感覚は類似しているという。つまり“怖いものみたさ≒恋をしたい欲求”なのではないかと。
ひとりの人と真剣に向き合うことについて。すぐに恋人と別れたりするという、関係の簡易化。恋的ドキドキ感覚が減少したら、新しいドキドキ感覚を求めるために関係を終わらせ、別の新しい人と関係を結ぶ。恋的ドキドキ感覚を得たい。つまり恋とは何か(ドキドキ感覚)を得ることが絶対的条件の感情ではないかと。恋人関係を築くにあたり最も大切なことは、いかに自分に恋的ドキドキ感覚を与えてくれるかどうかである。よりドキドキ感覚を与えてくれる人を恋人に選ぶ。次第にそのドキドキ感覚に慣れる等の理由で対象への愛着が薄れ、別のドキドキ感覚を求める=恋人の交換。対象(恋人)がかわるだけであって、根本的欲求(恋的ドキドキ感覚を求める)は変わりない。これが人間の表面感情の変化の容易と、内面感情の変化の困難。ゆえに感情変化は容易であるとも困難であるとも受け取れる。



様々な好きという感情について。(恋人への好き、家族への好き、友人への好き)
恋人への好きは読んで字のごとく恋的感情ゆえにドキドキが必要不可欠(?)

安心、安定感を求める。一緒にいて楽しい、安らぐからという理由で一緒にいたいと思う。家族への好きという感情に推移。恋人への好き<家族への好き、という訳ではないが、そういった感情の推移により恋人は家族化する。→結婚し、家族を持つ。
子供には初めから家族への好きという感情を持つ。(家族への好き=無条件の愛、無償の愛)
親←無条件、無償の愛→子供
これの繰り返しによる子孫繁栄。しかし必ずしもこの式が成立するわけではない(DV等)。さらにお金の問題など、無条件、無償の愛だけではどうにもならないことがたくさんある。


こーゆうことを高校生の時は延々と考えていた。その時のノートが出てきたので載せてみた。